どうして、争いごとが好きなんでしょうね。

誰かが何をしたからとか、誰かがどうしているからとか、あの人が、この人が、あの方法が、その出来事が・・・

少し前からなのですが、争いごとに手を出すのが嫌になりまして・・

限りある命を、ただ風の如く吹く時には吹き、止まる時は止まり、自然界の一員としての人として、ただある・・という
状態を望んでしまっています。

それでも、子供等の問題が起これば動きますし、お笑いを見れば笑いますし、情勢を見て、心痛む時や、怒りを感じたりする事もあるのですが、お日様が昇れば明るくて、夏の日差しは暑くて、冬の雪景色は寒く、冷たく。
雨が降っているときは、そこにも風情があって、静かに静かに暮らしてゆくのが一番だと思うのですね。

誰が何を言ったとしても、自分の心に恥じない生き方が出来ればいいな・・
お天道様に顔向け出来ない生き方をしないようにしよう。

神様というものに感謝もしますが、でも、申し訳なくも頼りません。
動き時は、どんな力が働いたとしても、まずは自分で動き、自分の決断で行動します。

恐らくこれは、まだ抜けることの出来ない父親の死の瞬間・・願っても叶うことのない、その命だったためでしょう。

生きとし生けるものは、いつしか器の限度が来てなくなるものです。
自分もそうだし、子供等もいつしかそうでしょう。

だからといって、自分を大事にしないと言うのは、良くないものわかっています。
まずは自分が無事に生き生きること。
自分を台無しにしてしまっては、守るべき人、大切な人を最終的に悲しませるだけですし、問題を大きくするだけです。

誰かが何かを言った、誰かが嫌な事をした・・・当然、むっとするでしょうし、困惑も生じます。
でも、それに対して、何かの報復をしたなら、自分に返って来る物が大きくなるだけです。
負は連鎖を呼びます。

私はよく、「同じ土俵に立ちなさんな・・・」と、言う事があります。

大いなる神と呼ばれるものは、善いも悪いもありません。
所謂、神様・と呼ばれている、神話上の神様方は、よいエネルギーで人々が具現化した象徴です。
悪い神様と呼ばれるのは、人々のエネルギーで悪い具現化をした象徴です。

もちろん、そこには、他の要因も加わってはいますが、果たして地球がなくなったときに、神々は・・・・

スピリチュアル用語の中に「ワンネス」と呼ばれる言葉があります。

一つのエネルギーとか、唯一のもの的なんだったかな・・(すいません、占いですが、あまり得意ではないのですよ)

神と呼ばれるエネルギーには、善も悪もないと、私は思っています。ただ、宇宙が広がるエネルギーを持って、広がり、あった筈ものが押しのけられているだけ・・・
でも、次の宇宙に至るにはこれの繰り返しがある・・・まるで、水の波紋のようではありませんか?

その、善悪のないエネルギーと供に、自然のままでありたい・・

昔から一般社会的な考えをあまり持っていませんでしたが、今はより強くなってきています。
羨ましいとか、妬ましいとか、そういった感情がなくなりつつあります。
年をとったせいということも、いえるかもしれませんね。

ただ、子供等が笑って、世界が丸く感じられるだけでいい・・それだけなんですが・・・