人は、どうして、逝ってしまうのでしょう。

大切に、どんなに大切にしていても、どんなに一生懸命手を差し伸べても、その命は逝ってしまいます。


肉体の限界、そんなことは、人間として生まれ生きてきた教育の中で、生命のいとなみとして、

理解も出来、わかっていることです。


猫は、象は、一説には死期を感じると、人前や仲間の中から消えてしまうといいます。

その理由はきっと、そこで亡くなってしまうと、弱肉強食の世界、子供たちが猛獣の危険に会うかもしれないと、

本能的なことで理解しているのかもしれません。


でも、もし、もしも、仲間に死を悟られ、悲しみを与えたくないと思っていたら・・・・


私も人間です。

もし、もしも、自分が死ぬとしたら、悲しんでしまう家族や友達、仲間、ご縁のあった方々には知られたくないと

思ってしまうかもしれません。


その命は永遠で、どれほどもスピリチュアルを考え、学んで、その霊体などを目で見ることが出来たとしても、

触ることの出来ない、抱きしめてもらえない、そんな悲しみはとても大きく、残ってしまうのでしょう。

このような仕事をしているわけですが、人の死がそれまでだと言われない、永遠の流れがあって、

過去世で出会い、来世で出会う約束をしていても、いまここで、居なくなられてしまうとその悲しみは程知れないほど、流れ出てきます。


人はどうして、逝ってしまうのでしょう。

命はまた、どうして逝ってしまうのでしょう。


母も、年老いてゆきます。

たとえ、どんなに完璧な占いがあったとしても、危険を避けることは出来ても、永遠を与えることは出来ません。


魔法が使えたとしても、永遠を望むものは居ないと思います。

ただ、自分だけが残されて、知り合った暖かいものたちが、次々に先に逝ってしまう、これほど、

悲しくて、辛い事もないからです。

やっと手に入れたものが、砂のように指の隙間から零れ落ちてゆく、そんなことは・・・ただただ・・寂しいだけです。


死を死として求められない、選べない、そういった悲しみもあるのです。

願ったもの、一緒に居られると居たいと、その命の永遠を求め、気が狂った人もいることでしょう。

それはこの次元、この今の地球ではありえないことかもしれません。

ですが、永遠を手に入れたものが幸せだとは、限りません。

常に失う、そういった悲しみを永遠に繰り返すことになるのです。


限界のある、それが悲しくないわけではありません。

限界があるからこそ、心の中にかの人は存在し、思い出を残してくれます。


それでも、それでも、人はどうして逝ってしまうのでしょうか。


痛む心が癒せなくています。


辛くはありません、困ってもいないのです。

ただ・・どうして?と、問うことしか出来ないのです。

逝ってしまった事をうらむ事も、憎む事も出来ません。

なぜなら、その人は痛む体と困惑した気持ちから、今は解き放たれているのですから。


伴侶として苦楽をともにしたその人は、先を見ようとして良き、生きています。

その人から頑張ることを学んだ、若き命たちは、自分達の思いっきりの人生を生きています。

良くも悪くも住む世界が違ってしまった、かの人の血筋の若きものは、やはり自分の世界と自分を大切にしています。


なぜなら、自分を生かしてゆくことだけが、とても困難なことだからです。

動く事も、考える事も自由ですが、その血筋の若き人は、常に体の痛みと、心の不安とともに生きています。


ただ、私だけが取り残されて、ただひたすらに空を仰いでいます。

泣く事も、叫ぶ事も出来ないまま。


こうして、時間が過ぎてゆきます。

ひたすらに、生きてゆこうと、ひたすらに優しくいられたらと、ただそれを願って。


人はどうして逝ってしまうのでしょう。

何処へ逝ってしまうのでしょう。

取り返すことは出来ないのでしょうか。

上を向いていたならば、涙はこぼれないでいてくれるのでしょうか。


貴方は、大切な人に何を送りますか?

生きていることに感謝できますか?


どうぞ、心の中に、星の光が届きますように。